挨拶―原爆の写真に寄せて


 「挨拶」という題名は、朝出勤してきた同僚に「オハヨウ」と呼びかけるノリでつけたようです。戦後しばらくは原爆の写真の公開はアメリカ軍により禁止されていました。その禁止が解かれての8月6日の朝、出勤を示す名札の上に、当時そこに勤めていた石垣さんはこの詩を張り出したようです。(詳しくはこちらをごらんください。)

 これをもとに、詩を分析してみましょう。


 

あ、

この焼けただれた顔は

一九四五年八月六日

その時広島にいた人

二五万の焼けただれのひとつ

 

すでに此の世にないもの 

この詩と一緒に、このような写真が張り出されたそうです。

今では考えられないシチュエーションですね。

 

とはいえ

友よ

向き合った互の顔を

も一度見直そう

戦火の跡もとどめぬ

すこやかな今日の顔

すがすがしい朝の顔を

 

 

作者の職場の同僚に呼びかけている部分です。

出社した職員は、名札を裏返しにします。その名札の上にこの詩は掲げられました。同僚に「オハヨウ」の挨拶をします、という意味なのでしょう。

誰もが、戦後平和になって、みんな「すこやか」で「すがすがしい」顔をして朝の挨拶を交わしている光景ですね。

 

その顔の中に明日の表情をさがすとき

私はりつぜんとするのだ

 

地球が原爆を数百個所持して

生と死のきわどい淵を歩くとき

なぜそんなにも安らかに

あなたは美しいのか

  

 そんな爽やかな顔が、明日も同じ顔でいられるでしょうか。もしあの8月6日のようなことがあったら、「明日の表情」は、写真のような顔になっているかもしれません。それを思ったとき「私は慄然とする」のです。

 この詩が職場に張り出されたのも、あの8月6日。ねらってのことです。「原爆を数百個所持して」(現在はもっとずっとたくさんあります)、アブナイ指導者がいつ核のボタンを押すかわからない……そんな「生と死のきわどい淵を歩く」現在、再び核の悲劇が繰り返されることはない、とは言えません。

 なのに「なぜそんなにも安らかに」「美しい」顔をしていられるの?という作者の問いかけです。

 

しずかに耳を澄ませ

何かが近づいてきはしないか

見きわめなければならないものは目の前に

えり分けなければならないものは

手の中にある

午前八時一五分は

毎朝やってくる 

 

 核の脅威は、ある日突然やってくるのではありません。「しずかに耳を澄ませ」てその兆候を見極めなければいけません。その日がやってこないように行動を起こすのも私たち自身。私たちの「手の中にある」のです。

 朝の8時15分は毎日やってきます。そして「あの」日の8時15分が再びやってこないようにするのは、私たちの毎日の自覚なのです。

 

一九四五年八月六日の朝

一瞬にして死んだ二五万人の人すべて

いま在る

あなたの如く 私の如く

やすらかに 美しく 油断していた 

 

1945年8月6日の朝のヒロシマの人たちは、きっと次の瞬間、こんな写真のようになるなんて夢にも思っていなかったのでしょう。みんな「やすらかに 美し」い顔をして「油断していた」のです。そしてそれは、危機意識を失った私たちも同じです。危機意識を失ったとき、核の悲劇は繰り返されるのかもしれません。


詩の背景

 作者の石垣りん(1920年(大正9年)-2004年(平成16年))は、東京都生まれの詩人。
 小学校を卒業した14歳の時に日本興業銀行に事務員として就職。以来定年まで勤務し、戦前、戦中、戦後と家族の生活を支えました。
 そのかたわら詩を次々と発表。職場の機関誌にも作品を発表したため、銀行員詩人と呼ばれました。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 『ユーモアの鎖国』(石垣りん 1973)で、作者は次のようにこの詩について説明しています。

 

 第二次世界大戦後、・・・。食糧も娯楽も乏しかった時期、文芸といった情緒面でも、菜園で芋やかぼちゃをつくるのと同じように自給自足が行われ、仲間うちに配る新聞の紙面を埋める詩は、自分たちで書かなければならなかった。実際、私も勤め先の職員組合書記局に呼ばれ、明日は原爆投下された8月6日である。朝、皆が出勤してきて一列に並んだ出勤簿に銘々判を捺す、その台の真上にはる壁新聞に原爆投下の写真を出すから、写真に添える詩を今すぐここで書いてもらいたい。と言われ、営業時間中、一時間位で書かされたことがありました。

 

(中略 「挨拶」の詩) 

 

 

 題名は、友だちに「オハヨウ」と呼びかけるかわりの詩、という意味で「挨拶」としました。

 あれはアメリカ側から、原爆被災者の写真を発表してもよろしい、と言われた年のことだったと思います。はじめて目にする写真を手に、すぐに詩を書けという執行部の人も、頼まれた者も、非常な衝撃を受けていて、叩かれてネをあげるような思いで、私は求めに応えた。どういう方法でつくったという手順は何もなく、言えるとすれば、そうした音をあげるものを、ひとつの機会がたたいた、木琴だかドラムだか、とにかく両方がぶつかりあって発生した言葉、であった。それがその時の空気にどのように調和し得たか。

 翌朝、縦の幅一米以上、横は壁面いっぱいの白紙に筆で大きく書いてはり出されました。皆と一緒に勤め先の入口をはいった私は、高い所から自作の詩がアイサツしているのにたまげてしまいました。何よりも、詩がこういう発表形式で隣人に読まれる、という驚きでした。

 今で言えば、学校の職員が出勤した時にひっくり返す職員室の前の札の上に、初めて原爆被害者の写真がデカデカと張り出され、その隣にこの詩が書かれていたのですね。

 「友」というのは、同じ職場に出勤してきた人たちのことを指します。

 作者は、朝、学校へ出てきて「オハヨウ」と言葉をかけあう「向き合った互いの顔」と、目の前に張り出された初めて見る原爆被害者の顔の二つを対比的に描いているのです。


コメント: 1
  • #1

    そら (日曜日, 19 11月 2023 20:05)

    午前八時十五分は毎朝やってくるって文に心を刺された