扇の的


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「なぜ平家は『扇の的』を仕掛けたのか」「なぜ与一が選ばれたのか」「扇の的を落とされた平家は何に感動したのか」「『あ、射たり』『情けなし』と言ったのは誰か」など、『平家物語』には書かれていない部分を『源平盛衰記』を通して明らかしていく問題集です。

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扇の的の成功率

 那須与一は、高さ30㎝以上幅50㎝以上の扇の的に、70~80mくらいの距離で命中させていますが、どのくらいの成功確率だったのでしょう。

 全日本遠的競技会優勝経験者数名で実験したところ、五分の一の確率で成功したそうです。また、テレビ番組でも実験したところ、成功しています。

(テレビですから編集したでしょうけどね。)

 気象条件や弓矢の性能等を考えると、与一は名人には違いありません。

 しかしMissyon Impossibleなものではないようです。5回に1回は成功が期待できるのですから、戦に明け暮れた当時の武士たちの中では「弓の名人ならば、運が良ければ命中させることができるかもしれない」くらいの意識だったのではないでしょうか。


平家はなぜ「扇の的」を仕掛けたか?

『源平盛衰記』では、次のように説明されています。

 

 この赤地に金の日の丸の扇というのは、高倉院(平家方の上皇)が厳島神社に奉納したものです。平家は都落ちして厳島神社に立ち寄ったとき、神主から「この扇には厳島神社秘蔵の品で、高倉院のお気持ちが籠もっています。ですからこれを持っていれば敵が矢を射かけてもUターンして射た人に当たります」と言われて受け取りました。

 そこで、この扇を的にして、平家が勝つか源氏が勝つかの占いをしよう、ということになったのです。 

 

 しかも、この占いの儀式に使う矢は鏑矢と決まっていました。鏑矢は当然弾道が安定せず、命中確率が下がります。これも平家に有利な条件でした。

 更に、この扇自体、射ることがはばかられるものであったようです。『源平盛衰記』で、与一も「扇の紙には日輪を描いてあるので、射るのは恐れ多い」と日の丸の部分に命中させることをためらっています。確かに「太陽を射る」というのは中国の古典にもあるように、とても恐れ多いこととされています。しかしそれだけでしょうか。

 赤地に金の日の丸というのは、赤は朝廷の色、金は太陽の象徴です。このデザインは後に「錦の御旗」と呼ばれるようになる天皇旗と同じです。

 この時、平家は安徳天皇を奉じていました。これに対し、後白河天皇は安徳天皇の弟である後鳥羽天皇をたてましたが、天皇の継承に必要な三種の神器はまだ安徳天皇(と平家)のものであり、平家には三種の神器をもつ安徳天皇こそが正統な天皇であるという思いが強かったと思います。

 

 天皇の象徴とそっくりな赤地に金の日の丸の扇を出して、「正統な天皇に『弓を引く』(反逆する)つもりか」と源氏を挑発しようとしたのかも知れませんね。

 ちなみに、錦の御旗を初めて使ったのは、後鳥羽上皇(当時は天皇)です。後に執権北条氏に反旗を翻した承久の乱で用いました。何か因縁めいていますね。  

平家は何に感動したのか

『源平盛衰記』では、与一が扇を射た後、扇をセットした女房、玉虫の前が次の歌を詠んでいます。 

  • 時ならぬ花や紅葉をみつるかな芳野初瀬の麓ならねど(その季節でもないのに、桜の花や紅葉の舞い落ちる様子をみたことだ。ここは桜や紅葉の名所の芳野や初瀬の山の麓でもないのに。)

  与一は、扇の要の少し上を射切りました。童謡『紅葉』ではありませんが、

溪(たに)の流に散り浮くもみじ

波にゆられて はなれて寄って

赤や黄色の色さまざまに

水の上にも織る錦(にしき)

と、錦地に金の扇が要の部分を射切られて海に舞い落ちる姿を紅葉に見立てたのでしょう。

 

 見立て遊びは、平安貴族の基礎的素養です。どっぷりと貴族化してしまった平家の特徴がよくあらわれていますね。

なぜ平家の男は射られたのか?

 『源平盛衰記』には、次のように書かれています。

 

 平家の男が舞を舞ったとき、源氏の中で「射殺すべし」と「射てはならない」という二つの意見がありました。

 「あんなに感動している者を射るのはいかがか。だいたい与一は的にあてるほどの技量であるので、殺してしまうことになる。」というのが「射てはならない」という理由です。一方「与一は扇に当てはしたが敵を倒したわけではない。まぐれ当たりと言われても面白くない。」というのが「射殺すべし」の理由です。

 そしてすったもんだの末、「情けは一時の感情だ。今は一人でも敵を倒すことが大切だ。」ということに決まり、射ることに決まりました。

 

 そういうことで、やりきった感満載のドヤ顔をして帰ってきた与一は、また海の中へ行かされることになったのです。このように最後の部分の「あ射たり」も「情けなし」も、『源平盛衰記』では源氏の言葉として書かれています。

 武士としての技量を重視した源氏の武士たちと「敵を一人でも多く殺すことが戦である」と考えた義経。貴族化した平家と違い、徹底したリアリスト(源氏の武士は戦の職人、義経は戦争屋)ですね。

 まあ、だいたい那須与一自身、実在したかどうか疑わしい文学的文章ですから、本当はどうだったかは、それこそあなたの胸の中にあると考えてよいでしょう。


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