「僕」が「詩人をめざした作者の投影」だったとすると、エーミールは「父母の期待に応えようとした作者の投影」だったのではないでしょうか。
蝶を求め続けた芸術家の「僕」と社会正義のエージェントであるエーミールは、共にヘッセの投影だとします。すると、プロローグの「客」(友人=「僕」)は、あの時詩人への道をあきらめてしまったヘッセの「もしも」の姿だったというのは、考えすぎでしょうか。
「客」はもうちょう集めをやめてしまっていますが、ヘッセも、自分があの時、詩作をやめてしまっていたら、今でも心が痛むだろうな、と思ってこの作品を書いたのではないかと思えてなりません。