学びて時に之を習ふ


孔子と儒教

 孔子(B.C.552?~B.C.479)は、釈迦、キリスト、ソクラテスと並び四聖人に数えられる、中国の春秋戦国時代に活躍した思想家です。

 

 この時代、乱れた世の中をおさめようと、さまざまな思想家が活躍しました。これらの思想家達を諸子百家と言います。

 諸子の「子」とは、孔子とか老子とか、人のことを指します。百家の「家」とは、孔子なら儒家、老子なら道家というように、学派のことを指します。ですから、諸子百家というのは、「たくさんの学者、たくさんの学派」という意味です。

 彼らは、乱れた世をなんとかしようと、政治のあり方や処世術などを説き、諸国を遊説してまわりました。そして諸侯たちも、優秀な人材を確保し、敵国に流れないように、彼らのために立派な邸宅を用意したり従者をつけたりして、歓待しました。

 孔子は周(しゅう=中国の古代王朝)の治世を理想とし、義(ぎ=正しい行いをすること)により家族や身分の上下を確立しなおし、仁(じん=他人に対する優しさ)を基本にした政治を提唱しました。「周の国のように、優れた人格を持つ王が国を治め、人々は礼節を守って暮らしていきましょう」という自分の考えをなんとか受け入れてもらうために、三千人もの弟子達を連れて諸国をまわりました。

 

 春秋戦国時代は戦乱の時代です。孔子は仁義などの「徳」による政治で世の中を安定させようとしたのです。

 しかし彼の思想は、当時の王たちには受け入れられませんでした。

 また、戦乱をおさめた秦の始皇帝は儒教の書物を焼き儒学者を生き埋めにするなどしました。(これを焚書坑儒=ふんしょこうじゅと言います)。

 しかし秦の次に興った漢は、安定した身分制度を維持するのに都合のよい儒教を国教としました。

 更に中国(漢)の影響を強く受けた朝鮮や日本などにも広まっていきました。

 孔子の教えの中で、孔子が直接編纂したといわれるものは四書五経(ししょごきょう)と呼ばれます。しかし『論語』はこの中にはありません。

 『論語』は、孔子の弟子たちが、彼の死後約四百年かけて彼の教えをまとめたものです。キリスト教の『新約聖書』や、仏教の仏典と同じですね。


孔子とその時代

 春秋戦国時代に活躍した思想家は孔子だけではありませんでした。諸子百家の主なものには、次のものがあります。

  • 墨家

 平和主義・博愛主義をとなえた墨子の一派です。差別がない「博愛」や非戦論の「非攻」を主張しました。そのため武装集団となって城を守る戦いに協力しました。(攻めない、と言っているだけで、守らないわけではありません。)

  • 法家

 王の人徳によって国を治めると思いつきや独断がはいります。そこで厳格な法律によって国を治める「法治主義」を唱えた韓非子(かんぴし)の一派です。秦に採用され、中国統一の原動力となりました。

  • 名家

 「白馬は馬ではない」というような、ギリシャ時代の哲学と通じるところがある名家。(このような考えは、現在では意味論と呼ばれている。)

  • 道家

 礼を捨てて自然のままに生きる「無為自然」を主張した老子・荘子(ろうし・そうじ)の一派です。老荘思想とも言われます。この思想は中国土着の信仰と結びつき、仙人などの信仰といっしょになって道教となりました。

  • その他

 「皆農主義」を唱えた「農家」、古代ギリシャのソフィストのような詭弁を用いた「名家」、飛鳥時代の日本に陰陽五行説を伝えた「陰陽家」、強国の秦とどのようにつきあうかの方法(合従連衡)を論じた「縦横家」、儒家、墨家、道家、法家などの学説を取り入れた著作を残した「雑家」などがあります。

 諸子百家には数えられませんが、いかに戦争に勝つかを考えた孫子・呉子(そんし・ごし)の兵家、どのように外国とつきあえば有利になるかを考えた縦横家、万物の生成と変化を陰と陽、木・火・土・金・水にあるとし陰陽五行説を唱えた陰陽(いんよう)家などがいます。

 この時日本は弥生時代。卑弥呼が中国(三国志の魏)に遣いを出す七百年も前の話です。

儒教と日本

 孔子は血縁を基本とした愛情と道徳のあり方を示しましたが、後にさまざまな分派が生まれました。

 その一つが秩序を重んじ身分制度を理論づけた朱子学です。

 これは封建制度の維持にとても都合がよいため、江戸幕府が推奨しました。

 この朱子学に対し「理をつきつめようとするあまり机上の空論で実際の役には立たない」という批判があり、「行動を伴って初めて学問を身につけたことになる」とする陽明学がおこりました。

 陽明学は幕末の大塩平八郎で有名ですが、吉田松陰や西郷隆盛などの維新の志士たちも学び、彼らの行動原理となっていました。


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